100年前の世の中


 20世紀初頭の世界人口は16億5000万人であった。国連推計によると20世紀末には約62億人になる見込みであるから、20世紀初頭の世界は現在の4分の1の人口規模であったのである。

 また、日本の1901年(明治34年)の総人口も約4,440万人であり、1996年の約1億2,590万人と比べると約3分の1の人口規模であった。

 そして、この頃の世界は電気、石油、並びに通信などの技術革命に沸いていた。蒸気機関車が電気機関車になり、ガソリンエンジンが実用化されていった。グラハム・ベルが発明した電話でニューヨークとシカゴ間の通話に成功したのもこの頃である。日本も欧米の科学技術の導入につとめ、近代化の道をひた走っていた。

 19世紀末は「イエローナインティーズ」などと呼ばれ黄色がはやった。黄色は不安と反抗のシンボルでもあった。ゴッホは、黄金色のひまわりを描き、糸杉の上で輝く太陽を鮮やかなオレンジ色で彩った。ロートレックは「ムーラン・ルージュ」の踊り子たちをまぶしい黄色で飾ったのである。

 現在日本で大流行のオペレッタが100年前の19世紀末のウィーンでウィンナ・ワルツと一体になって大流行していた。20世紀末の日本は当時のウィーンと似ているともいわれる。ウィーンではハプスブルク帝国の威光は衰え、1873年のウィーン万博が始まっる頃に株価も暴落し、小銭を貯めた多くの市民が没落していった。”バブル崩壊”にあえぐ庶民はワルツの踊りに救いを求め、オペレッタに過去の美しい夢を追ったという。

 また、パリ万博が1900年に開催された。日本人の声の最古のレコードはこの時録音されたもので1900年のものである。「欧米漫遊の川上音二郎一座」が、「オッペケペーをお聞きに達しまする・・・」で始まる。奇異な異国情緒が大当たりして録音したといわれている。パリで川上一座が吹き込んだもので、日本人の声を収めたレコードで最古のものである。

 1900年には米国が中国や英国などを抜き世界一の工業国となっている。19世紀初頭の1800年頃に世界の3分の1を占める工業生産額を誇った中国(清)は産業革命に乗り遅れ、1840年〜1842年のアヘン戦争を境にして英国に抜かれ、続いて欧州列強及び米国に抜かれた。

 そして、米国のラスベガスの夜はまだ闇であった。砂漠のオアシスに小さな農場と丸太小屋があっただけである。当時の住人は18人であるという1900年の国勢調査の記録が残っている。

 19世紀は西洋文明が人類の未来にバラ色の夢を描いた産業主義の時代だったといわれている。20世紀にはその反省が台頭し資本主義の発展も植民地支配の上に成立していたにすぎないことに気づき始めていた。

 一方、日本は欧米の科学技術の導入につとめ、近代化の道をひた走っていた。1901年には東洋一の規模の官営八幡製鉄所第1溶鉱炉にに火が入り操業されている。また、ヨーロッパ先進国で書き言葉と話し言葉が一致しているのに気づき、不言一致運動が進んだ。小学校教育の中に国語科ができた。1902年には日英同盟が結ばれた。また、八甲田山死の彷徨も1902年のことである。1903年には第5回内国産業博覧会が大阪・天王寺公園で開催された。海外18カ国の参加も見て、20世紀の幕開けを象徴する新製品が展示された。一番人気は電気冷蔵庫であったという。温度保持のため、一度に50人しか見学できずに行列ができた。夜になると各展示館はイルミネーションで飾られた。電飾をイルミネーションといったのはこのときが最初である。6,700個の電灯が使われ、5ヵ月間の会期中に530万人の人が入場した。


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